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2011年5月 5日 (木)

総持寺展なう

総持寺展なう
横浜での授業の前に神奈川県立歴史博物館で開催中の「総持寺展」を覗いてみました。
鶴見移転100年記念という趣旨に違わず、あまり見るべきものはありませんでした。元の総持寺は100年前に灰燼に帰してしまったわけですから、仕方ありません。焼けた堂舍が赤で印刷された絵図があって、ほとんど何も残らなかったことがよくわかりました。

というわけで、すぐ見終わってしまいました。なんか物足りないので、博物館の向かいの古本屋でミリスの『異教的中世』を買って埋め合わせ。馬車道からバスに乗って午後の授業へ向かいました。

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引き続き支援を!

連休中も仕事のカモノハシです。

先日、いわき市の一時提供住宅(雇用促進住宅等)への入居が始まったと書きましたが、例によって役所の手続きに時間がかかって、なかなか避難所の解消は進んでいません。それでも、この連休に入ってかなりペースが上がって来て、今日ようやく2000人を切りました。それでもまだ2000人近い人が避難所での暮らしを余儀なくされているわけです。
そしてさらなる問題は、避難所から住宅に移ったら「ハイおしまい」というわけにはいかないところにあります。津波で家を失った人たちは、文字通り着の身着のままで逃げ出してきたわけですから、鍋釜ひとつ持っていないのです。避難所にいればとりあえず配給がありましたが、避難所を出ればそれもありません。一応、赤十字が基本的な家電製品は用意してくれるそうですが、食器や衣類は一から揃えなければなりません。これは家も仕事も失った人にとっては、結構な負担です。失業保険や生活保護を申請しようにも、これまたお役所ですから、すぐになんとかなるわけではありません。つまり、避難所を出ても、生活基盤がある程度出来るまでは、まだしばらくサポートが必要だということになります。

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2011年5月 2日 (月)

祭を自粛するということ

震災のあおりで連休も仕事のカモノハシです。

府中の大国魂神社のくらやみ祭りが自粛だそうです。
今年は鎮坐1900年(!)の大祭だというのに、神事のみで祭礼は行わないとか。
大した反対もなく決まったようですが、誠に残念な話です。そもそも祭礼とは神のために行われるものであって、人間の勝手な都合でやったりやめたりしてよいものではないはずです。だからこそ、多くの祭が戦時中も粛々と続けられてきたのです。自粛を決めた神社や氏子たちは一番大切なことを忘れてしまったとしか思えません。

僕の講座「お笑い神道概論」では、「日本のカミさまはヤクザである」と教えています。その心は「理不尽に祟る」から。日本の神の本質は「祟る」ことにあります。何も悪いことをしてないのに、前を通りかかっただけで病気になったりケガをしたりします。言ってみれば、目があっただけでいきなり殴られるようなものです。とにかくおっかないのです。そのかわり、毎月毎年なにがしかのものをお渡しすれば、殴られないばかりか「何かあったらいつでも俺んところに言ってこいよ。力になってやるから」などと頼もしい存在になります。神様もこれとよく似ています。無辜の民にも理不尽に祟るからこそ畏怖の対象となるのです。古い時代の神像を見ると、ほとんど例外なく眉間に皺を寄せて不機嫌な顏をしています。神様はそもそも機嫌が悪い。だから祟られないようにお供えをし、お祭りを欠かさないことが大事なのです。

人々がどんなときでもお祭りを欠かさないようにしてきたのは、このためです。やめたらどんなことが起きるかわからない。もちろん戦争や災害で思うように祭が出来ない時だってあります。そういう時は、「申し訳ありません。今年はこれが精一杯です。お許しください」と謝りながら、一所懸命お祭りをやります。神様だってそんなに話がわからない方ではないですから、「うむ、まあ仕方がなかろう。来年はがんばって盛大にやるんだぞ」とやさしく言ってくださるでしょう。

地震と津波の被害を受け、おまけに原発のせいで避難区域になった福島の相馬の人たちは、それでもなんとか夏に予定された馬追神事を出来ないかと懸命になっています。おそらく東北の他の町の人たちも、夏や秋の祭をなんとかやりたいと考えていることでしょう。たとえつらいことがあっても、みんなで必死に歯を食いしばって祭をやる。我々の先祖は、ずっと何百年ものあいだ、そうやって来たのです。

府中の町には祭が出来なくなるような障害はほとんどありません。ただ、世の中の自粛ムードに歩調を合わせただけでしょう。これでは神社や氏子の長老たちは、祭を商店街のイベントぐらいにしか考えていないと思われても仕方がない。まあ、この辺がもともとイベント性の強い都市型祭礼の限界といえばそれまでなんでしょうが。
それにしても、祭ひとつ満足にやれないで、「ひとつになろう」とか「力を合わせて」とか、薄っぺらな掛け声ばかりが響く東京は、薄ら寒い感じさえします。連休明けの浅草の三社祭も自粛だそうですが、所詮東京の祭は単なるイベントと化してしまっていているということでしょう。情けないことです。

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