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2006年11月29日 (水)

映画祭2連発!!

近々開催される映画祭の紹介をお届けします。

Chinadocument まずは中国インディペンデント映画祭
中国・自主ドキュメンタリー in 東京
― 饒舌な日常生活 ―

 中国で最近に自主製作されたドキュメンタリー5作品を一挙上映し、映画の手法・テーマ・中国社会の日常生活の状況などについて討論します。

日程:2006年12月10日(日)
   10:00~11:30 房山教堂(徐辛監督作品)  討論:11:30~11:50
   11:50~12:10 車  廂(徐辛監督作品)  討論:12:10~12:30
   13:30~15:00 張博士(黄儒香監督作品)  討論:15:00~15:20
   15:30~17:00 馬 皮(徐辛監督作品)  討論:17:00~17:20
   17:30~19:00 外 面(王我監督作品)  討論:19:00~19:20

場所:専修大学神田校舍1号館202教室(地下鉄神保町OR九段下 徒歩3分)
主催:専修大学中国倶楽部+土屋研究室
* 無料

問い合わせ:the0561@isc.senshu-u.ac.jp 
専修大学HP:http://www.acc.senshu-u.ac.jp/koho/campus/index06.html 
研究室HP:http://www.t3.rim.or.jp/~gorge/tsuchiya.html
TEL:044-900-7933

<作品解題>
房山教堂(徐辛監督作品)江蘇省の農村に建設されたあるキリスト教会の実態。
車廂(徐辛監督作品)満員の長距離帰省列車の中で交わされる会話と表情。
張博士(黄儒香監督作品)文革で学業を放棄した「張博士」はロシアをめざす。
馬皮(徐辛監督作品)道教名山に近い江蘇省の村で近年始まった民間のお祭り。
外面(王我監督作品)アウトサイドに広がる中国の不思議な日常生活の数々。
 
Okinawamovie もひとつはオキナワ映画祭
傑作・問題作23本を全編上映。乱反射するさまざまのオキナワを見つめ、問い直す、4日間のドラマトゥルギー。
日程:2006年12月19日(火)→22日(金)
会場:和光大学 Jホール
主催:和光大学イメージ文化学科
入場料:無料(ただしパンフ代・資料代の実費をいただきます)

主な内容(この他にも映画上映多数、ギャラリートーク等あり)
12/19 13:00「やさしいにっぽん人」(東陽一/1970)
        17:00「独立少女紅蓮隊」(安里麻里/2004) 
12/20 10:00「島クトゥバで語る戦世」(比嘉豊光/2003)
        14:00「からゆきさん」(今村昌平/1973)
12/21 11:20「パラダイス ビュー」(高嶺剛/1983)
        14:00「ウンタマギルー」(高嶺剛/1989)
        16:30「夢幻琉球:つるヘンリー」(高嶺剛/1998)
        19:00 鼎談 高嶺剛×波照間栄吉×藤井貞和(司会:山本ひろ子)
12/22 10:45「新海南小記 アカマタの歌」(1973)
        14:40「ドルチェ―優しく」(A・ソクーロフ/2000)
        12:00「神々の深き欲望」(今村昌平/1968)
        15:00「夏の妹」(大島渚/1972)
      
問い合わせ:hiro@wako.ac.jp
映画祭HP:http://wako-image.net/okinawa/

Okinawaprogram 詳しいプログラムはこちら。

おおーっ、「夏の妹」! 栗田ひろみだぁっ。
って誰もわかんないよね。

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2006年11月26日 (日)

能を観る

Photo_5 友人のモリさんが能の公演に出るので観に行きました。
モリさんは学生時代から能を学んできたのですが、去年「能楽師」という肩書きを持つ身分になった、いわばプロ一年生です。今回の公演は、彼女がプロになってから初めて面を着けて出るので、実質的なプロデビューという晴れ舞台です。(しまった、花束でも持っていくんだった)
演目は「清経」で、ツレの「清経の妻」を演じます。この役は以前にも演じたことがあるので、二回目です。前回のアマチュアの時とどう違うのか、楽しみにして見に行きました。

「清経」は当日最初の演目。トップバッターということもあって、緊張していたようで、最初ちょっと声がうわずり気味かなと思いましたが、地謡が始まる少し前から落ち着いてきて、後はとてもよかったです。前回は、ちゃんと面と衣装を着けて演じるのは初めてということで、観ているこちらもドキドキでした。きっと本人も無我夢中だったんだろうと想像しますが、声がしっかり出ていて、すばらしかった。今回はと言うと、こちらも二回目でドキドキ感が薄れたせいもあるのかもしれないけど、前回に比べて安定感は増したものの、なんかうまく演じようとしたのか、ちょっと窮屈な感じがしました。能のことはほとんどわかりませんが、なかなか難しいなあという印象です。「これでいい」というのはないんだろうから、「一生勉強」というしかない。モリさんも、大変な道に足を踏み込んでしまったものだなあ。

ちなみに、残りの演目は「采女」と「海人」でした。
「采女」は春日社を参詣した旅の僧が、猿沢の池のほとりで采女の亡霊に出会い、弔ってやる話。「神後景雲二年、河内の国枚岡より、この春日山本宮の峯に影向ならせ給ふ」という春日社の縁起や、「昔は霊鷲山にして妙法華経を説き給う、今は衆生を度せんとて大明神とあらはれこの山に住み給ふ」という本地垂迹譚、さらに「龍女が如く我もはや、変成男子なり、采女とな思い給いそ」という龍女成仏まで、お馴染みのモチーフ満載の演目。詞章はおもしろいのだけれど、ストーリーがやや単調で、観ていてちょっとダレました。

それに比べて「海人」の方は、無理矢理なシチュエーションに、これでもかのベタな展開、まるで韓流ドラマのような作りで、観ている間中、何度も思わずニヤニヤしてしまいました。
房前大臣が亡母の追善のため讃岐の志度の浦を訪ねる話ですが、まず淡海公の妹が唐の皇帝に嫁入りしたので、唐から興福寺に三種の宝物が贈られてきたという設定がすごい。おまけに、その宝物の内「面向不背の珠」が海龍王に奪われて海の底に沈んでしまう。その珠を探しに来た淡海公は、身をやつして海女と契りを結び、海に潜って珠を採ってきてくれるように頼む。って、なんで人にものを頼むのに一々契りを結ばなきゃならんのか。すごい無理矢理。そこで海女は、生まれた子供を世継ぎにすることを条件に、珠を採りに行く。淡海公の貴種流離譚に、落とし胤の出世譚という二倍美味しい設定。しかも彼女は海底の珠を採る際に、非業の死を遂げるという、これでもかの展開。亡き母の追善のために志度を訪れた房前の前に現れた海女は、彼が自分の子であることを知った瞬間、手にしていた藻を刈る鎌をガターンと取り落とす。って、そこまでやりますか、というベタな演出。当然、話はここから母子ものに。
アイでは、浦人が房前の求めに応じて、海女が死ぬに至った経緯を語って聞かせるのだけれど、それがさっき前場で語られていた内容とほとんど重なっていて、まるでテロップでくどいほどに繰り返し状況を説明してくれる最近のテレビみたい。こういうところも何だか過剰サービスの臭いが。世阿弥作のもののように洗練されてはいないけど、この大衆演劇かと思っちゃうようなコテコテ感が僕は結構好きです。
後場は、龍女の姿を現した海女が、法華経の読誦によって成仏の舞いを舞うという、これもまた龍女成仏の物語。先週の「弘法大師伝ゼミ」の発表でも、龍女成仏が出て来たけど、やっぱり人気があるなあ。

そういえば、もう15年も前のこと、国立能楽堂で「当願暮頭」の復曲上演があって、観に行ったことがある。その時、関連企画として「能と縁起絵」という特別展示が催されて、「志度寺縁起」と「立山曼荼羅」の諸本が展示されていた。そこで、初めて志度寺縁起の内容について知ったし、立山曼荼羅をいくつも見たのだった。今、その時の資料を見てみると、すごい豪華メンバーが執筆していて、結構力の入った企画だったことがわかる。読み返してみると、すでに今扱っているような研究テーマがてんこ盛りで、自分が15年前の位置から少しも進歩していないことにちょっと愕然としました。
たしか、その会場でモリさんとばったり会ったのだった。モリさんは15年で、舞台の上の人になっちゃったのにねえ。

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2006年11月16日 (木)

仏像展

 東博で開催されている「仏像~一木にこめられた祈り」に行ってきました。11月の第一週は、特別に夜8時までの開館ということで、これは狙い目と思って行ったのですが、同時に行われた本館等のライトアップが、直前に新聞やテレビで紹介されたせいもあってか、結構混んでいました。
 で、感想をひとことで言えば、企画の勝利です。網羅的な展示ではなく「一木造」に視点を絞ったことで、日本の仏像史が今までとは全く違った形で描き出される。ひとつのテーマで思い切りよくスパッと切った、その切り口の鮮やかさに思わず息を呑みました。
 以前、やはり東博で「金銅仏」の展覧会があって、その時にどれもこれも中国大陸や朝鮮半島に雛型があるのがバレバレで、それはもう見事なくらいのコピー文化にほとんど打ちのめされた記憶があります。もちろんコピーだから美術的価値が劣るとかいうわけでは全くないし、独自の表現だから偉いというわけでもないのは言うまでもありませんが。それにしてもここまでありですか、という印象でした。
 それに比して「木彫仏」、特に一木造の仏像たちを眺めていると、仏教をどう自らの文化の中に取り込んでいったのかが浮かび上がって見える。工房で作られた大型の寄木造の仏像には、どことなく権威や権力の臭いがつきまとうのに対し、一木造の仏像には信仰の匂いをより強く感じるものが多いような気がします。
 僕はかつて「自然観」を共通テーマにした総合講座で、「日本における木の思想」というテーマで話をしたことがありますが、一木造の仏たちからは「木のちから」とでもいうべき、温かさや柔らかさを感じます。ちなみに神像彫刻はほとんどが一木造であったろうと思います(あとで岡直巳の本で確かめてみよう)。
 とにかく想像以上に見応えのある展示でした。ちょうど授業が休みだったので、学生さんと一緒に見たのですが、鉈彫りの仏像までで2時間近くかかってしまい、図録を買うために最後の円空・木喰のパートは駆け足で見なければなりませんでした。その図録がまた単行本にしてもいいくらい素晴らしい出来です。京博や奈良博が、早くから図録の編集を外部の優秀な編集プロダクションに任せて、デザインやレイアウトにセンスの良さを見せていたのに比べると、東博の図録は今ひとつ野暮ったい感じがしたのですが、今回の図録のデザインはピカイチです。(高いけど)
 前日に予習のために展示品リストを見ていて真っ先に気づいたのは、鎌倉・室町の仏像が一体もないこと。もうきっぱり小気味がよいくらいにない。鎌倉・室町は寄木造全盛の時代ですからやむをえないこととはいえ、さすがに平安末からいきなり江戸の円空まで跳んでしまうと、「オオッ、中世はないんかい」と思ってしまいます。このへんは、ちょっと宿題ですね。

Reigenbutsu  オマケをもうひとつ。別に「仏像展」に中世の仏像がなかったので、その埋め合わせというわけではないのですが、金沢文庫で開かれている「霊験仏―鎌倉人の信仰世界」にも行ってきました。こちらは当然30分もあれば充分なこぢんまりとした展示ですが、なかなかよかったです。いわきの如来寺のご本尊にも、久しぶりにお目にかかりました。
 9月の「儀礼シンポ」でも話題になった「生身の仏」をテーマにした展示で、ちょうど東博の展覧会と好一対をなす企画だと思います。いろいろ考えることはあるけれど、もう外が明るくなってきたので、今日の授業に備えて寝ることにします。

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